「ゲーム感覚」ではなく「ゲーム」

「勉強はゲームだ!」

といったニュアンスのことを言うのは私だけじゃない。

ネット検索してみれば、結構そういう発言が出てきます。

中には、書籍にまでなってるものもあります。

たいていの場合、

「勉強をゲーム感覚でやると楽しくなって、はかどるよ!」

的な言い方をなさってます。

しかし、私が言いたいことは異なります。

「ゲーム感覚」ではなく「ゲーム」なんです。

いわゆる「学校の勉強」はゲームなのだから、(他のゲームと同様に)ゲームとしてプレイすることで、はかどるのです。

それを「ゲームではないもの」として扱うから、おかしくなってくる。

え?普段、ゲームをしないからピンと来ない?

では、違うもので例えてみますね。

納豆

例えば、納豆(なっとう)です。

好き・嫌いがハッキリ分かれるイメージの食材。

これを誰かが調理するとして、

「うわっ、ひどいニオイだ。」

「とてもじゃないが、こんな腐ったようなものを偉い人に提供なんてできない。」

と、ご丁寧に水洗いしてから提供したらどうなるか。

そりゃあ、まずいだろ。

「美味しさ」と「行為」の2つの意味で。

納豆をそのまま出せば、納豆好きな人なら食べるし、嫌いな人は食べない。

それで済むのだ。

納豆は、良く言えば「個性的」、「キャラの立った」食材であり、好き嫌いがハッキリ分かれるのは「特徴の1つ」と言っていい。

けれど、水洗いなんてした日には、納豆好きな人でさえ食べなくなる。

納豆の個性が殺されるだけ。

不満に思うのなら、そもそも別の食材を使えばいい話。

さて、この場合、まずいのは納豆だろうか?

否(いな)、これは食材ではなく調理の問題だ。

「物品」ではなく「運用」に改善の余地がある。

勉強ゲーム

話を勉強ゲームに戻しましょう。

勉強ゲームはゲームなのだから、「ゲームとしてのおもしろさ」があるのです。

それを

「ゲームなんかしてるんじゃないの!勉強しなさい!」

だとか

「学問というものは、ゲームなどというチャラいものではなく、云々」

だとか、かしこまって(真面目腐って)おっしゃるものだから、「無茶な消毒」をされる。

ただただ「つまんねぇもの」に成り下がる。

寄ってたかって「つまんねぇもの」にされ、それを押し付けられ、あげく成績不振の責任まで取らされたら、たまったもんじゃないよね。

でもコレ、2020年現在、日本各地で起きていることだよね、きっと。

勉強ゲームをプレイしよう

「つまんねぇもの」に成り下がった勉強ゲームを押し付けられ、

「『つまんねぇもの』を押し付けられたので、できましぇーん。」

と言ったとしましょう。

仮にその通りだったとしても、それじゃあ進歩が無い。

「周りに足を引っ張られたんで、進めません。」

と嘆いたところで、それが本当だったとしても、いくら正当な主張だったとしても、イケてない。

このまま行くと、「つまんねぇもの」を押し付けてくる大人どもと同じコースをたどる。

だからこそ、勉強ゲームをプレイしよう。

どんなに鈍感な人でも

「嗚呼…!勉強には『ゲームとしてのおもしろさ』があったのか!?」

と気づけるくらいに見せつけてあげよう。

それでこそ、自他ともに満たされるってもんよ。

Good Luck!

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